WEBIMPACT 公式ブログ

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<episode 1>学生時代に起業した仲間と20数年後、資本業務提携に至るまで

株式会社ウェブインパクト取締役ファウンダーの高柳寛樹です。
株式会社ウェブインパクト(以下、WIとする)は、株式会社フジサワ・コーポレーション(以下、FCとする)と資本業務提携をすることになりました。今後はFCがWIの株式の一部を取得、経営を担当し、私は引き続き会社の執行について責任を持つことになります。

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左から、代表取締役 澤田 剛治、取締役ファウンダー 高柳 寛樹(撮影:澤田 剛治)

今回の資本業務提携について、私とFCの代表取締役である澤田(今回の資本業務提携においてWIの代表取締役に就任)が5年に渡り経営強化プランを練ってきました。ソフトウェアエンジニアリング企業であるWIと、2018年で創業71年を迎え、現在は、サイン・ディスプレイ制作とそれをベースにする不動産賃貸を事業としているFCとの業務提携は、両社の持ち味を最大限活かし、補い合いながら経営を強化していけるものであると考えています。
ここに至るまでの流れを振り返ってみると、今回の資本業務提携は「必然的」なものだと思わざるを得ません。それは事業としてはもちろんですが、私と澤田のこれまでの関係にも由来します。

私と澤田が出会ったのは1982年(昭和57年)、小学校1年生の時になります。小学校に入学した私たちは、中学、高校、大学、大学院と同じ学校で過ごしました。大学と大学院に進学してからも一緒にインターネットの研究をし、そして起業した仲間です。WIの前身である株式会社ウェブハット・コミュニケーションズは、私と澤田が中心になり、それぞれの研究を持ち寄って立ち上げた会社なのです。

私たちは1995年に立教大学に進学しました。私は社会学社会学科、澤田は社会学部産業関係学科(現在は経営学部と統合)と、学科は異なるものの同じ社会学部です。
今でこそソフトウェアエンジニアリング企業を経営している私ですが、大学時代は澤田が先にインターネット(その前はいわゆる「パソコン通信」)に関心を抱き、社会学の観点から研究をしていました。


私たちが大学に入学した1995年当時は、やっとMozillaが発表されたタイミングです。その頃は直接コンソールにコマンドを打ってメールのやり取りをしたり、大学の蔵書リストにアクセスしたりする程度でした。
まだ「誰もが便利に使いこなせるもの」というには程遠いものでしたが、それでも「通信と放送の融合」が言われ始めており、いずれはマスメディアがインターネット関連企業に買収されることがあるかもしれないという予見がされていた時代です。
社会学科で新聞などのいわゆる旧マス媒体の研究をしていた私は、マスメディアの立場からインターネットに興味を持ち始めました。そこで、すでにインターネットに詳しかった澤田にいろいろと教えてもらうようになったのです。

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立教大学 池袋キャンパス 2号館 (撮影:高柳 寛樹)

当時、私たちの研究室があったのは、大学の2号館(写真参照)です。私は放送制度論を主研究とする先生にご指導頂き、澤田はまさにインターネット研究の第一人者にご指導頂いていました。研究室も同じ建物のふたつ隣でした。現在はすっかりリノベーションして綺麗になっていますが、私たちが学生の頃はまだ1900年代初頭の建設当時の面影を残す古いものでした。その2号館には、社会学を志す熱心な学生や若手の先生が集まっていました。皆、仕事や勉強に熱中し、誰も帰ろうとしません。そのため、真夜中になっても電気が消えることがなく、いつもそのまま次の朝を迎えていました。

こうした環境のなか、大学3年生のときに澤田がインターネットに興味がある人たちを集め、ネットゼミと言われるゼミを自主的に主催するようになりました。2号館の階段の踊り場の片隅にある倉庫に机を並べ、サーバーを立ち上げてみたり、いろいろなテーマを見つけては毎晩のように熱の入ったディスカッションしたりしていました。

その頃のインターネットは、現在のようにインフラとして当たり前のように存在していませんでした。環境がまったく整っていないので、サーバーを立ち上るのも回線を持ってくるのも一苦労でした。もちろんまだ無線LANも存在しません。そのため、ネット回線を引くのも先生方の使っているものを借りて、手作業でパイプに通し、倉庫にある作業場までLANケーブルを屋根からぶら下げて持ってくるなどの「工夫」を凝らしていました。すべてが試行錯誤で、まるで文化祭の準備をしているような楽しい毎日でした。

学生の予算では、なかなか高価なものも買えません。インテルのCPUは高くて手が届かないので、AMDCyrixをなんとか工面するなどしていました。苦労を重ね、最初に完成したサーバーの名前は二人が研究していた社会学の祖であるマックス・ウェーバーから取り「weber」と命名しました。2番目のサーバーは同じく「durkheim」、3番目は「Schütz」と、それぞれ社会学者から命名するという社会学部の学生らしい遊び心も取り入れていたことを今でも覚えています。

こうした環境は、私たちにとっては非常に恵まれたものでした。というのも、当時の大学はまだおおらかな雰囲気を残していたからです。

学生は大学の豊富なインターネットのリソースを自由に利用できました。大学には自由に使えるIPアドレスが数多くあり、24時間、365日利用できる広帯域のインターネット回線がありました。今のように常時接続のネット回線が自宅まで簡単に敷設できる時代ではありませんから夢の環境です。先生の研究室からネット回線を持ってくるためのパイプもガムテープも、大学の備品を使わせてもらえました。
しかも、何かわからないことがあれば、知識や経験が豊富な専門家である先生方が教えてくれます。たとえば、基盤やCPUを買ってきたものの、サーバーがうまく構築できない場合もすぐに数件先の研究室に伺って質問できる環境でした。

そんな環境で私と澤田は大学2生のときにWIの前身である株式会社ウェブハット・コミュニケーションズを立ち上げました。
起業したといっても、拠点は立教大学2号館の倉庫。そこでサーバーを作り、インターネットを繋ぎ、大学のIPアドレスを使って仕事を始めたというものです。熱心に議論を繰り返しては、新しいアイデアを生み出し、新たなサービスを次々とリリースする毎日は、とても刺激的でした。普通に学生生活を送っているだけでは経験できないことだらけです。慣れないスーツを身に着け、企業まわりをしたこともありました。

その頃の大学には、「個人的に」私たちの行動を応援し、指導してくださる先生方がたくさんいらっしゃいました。私たちの仕事に関することは、先生方の講義や研究活動、実績とは無関係なものでした。それでも、「実践から多くの学びを得よ」とおっしゃってくださいました。多少失敗しても許される学生時代に、思いきった行動を許してくださった先生方には本当に感謝しています。先生方に支えられ、学生時代に好奇心の赴くまま挑戦をしたことで、私はその後の人生の選択肢の幅が広がったと実感しているのです。

その後、私と澤田は事業を続けながら大学院に進学しました。大学院修了後、私はそのまま会社を続け、澤田は通信機器の大手企業に就職しました。今後の人生の基盤となる経験を積んだ学生時代を経て、それぞれの道を歩むことになります。

<episode 2>へつづく・・・

 

<episode 2>レガシー企業のITを取り巻く問題点

<episode 3>レガシー企業を引き継いで見えてきたIT化を進めるための課題と問題点

<episode 4>業務提携によって実現したいこと(1月25日公開予定)

 

≫株式会社ウェブインパクト資本提携と新取締役について(2018年12月)